MARCYの自分史ブログ始まりますよ!!
こんにちわMARCYです。
趣味の「MARCYの乱読日誌」ばかりアップしてきましたが、いよいよMARCYの自分史ブログを始めていきますね。
この写真って誰?言わずもがなのMARCY御幼少のみぎりの写真です。1960年、生後10か月父と母と記念写真に納まったMARCYですね。けっこう可愛いでしょ。そういうわけで1959年生まれ還暦を迎えたMARCYの自分史を語っていくわけですが・・・その前に!!
数回に分けてMARCYが自分史映像を作るお手伝いをしようと思った理由や、自分史活用推進協議会について、そして自分史の歴史などについてみなさんに知ってもらいたいと思います。今回はMARCYが自分史映像に取り組もうと思ったきっかけです。
なぜ、MARCYが自分史というジャンルに興味を持って、また専門領域の映像分野で自分史制作のお手伝いをしたいと思うに至ったかをまず聞いてください。
自分史を映像でつくる魅力!!を実感したふたつのできごと
父のテレビ出演
MARCYの父は、1927年(昭和2年)生まれでした。第二次世界大戦前の沖縄県生まれです。父は5男3女の8人兄妹の3男として生まれました。上の兄ふたりは沖縄県立二中に進学しました。
兄二人に成績も劣らなかった父も中学校に進学したかったのですが、当時家はけっして裕福ではなく、また弟や妹もいたので学費のいらない(当時、官費といったそうです)逓信講習所に進学しました。
逓信講習所は無線士を養成する学校で、国立の学校ですね。学費がいらないばかりか給与をもらいながら学校に行けて、卒業したら即、国家公務員として就職は100%保証されていました。まあ、親に負担を掛けずに就職の不安もない道を選んだ孝行息子だったわけです。
昭和19年の10・10空襲(那覇大空襲)の時、父は那覇無線局に勤務していました。
そして空襲で焼けてしまった無線局から、13名の局員は無線機を担いで県立二中近くの城岳(ぐすくだけ)の洞窟に避難し、必死で無線業務をこなしたのでした。
しかし、4月1日に上陸した米軍の進軍は止まらず、那覇無線局は最後の無線を打電します。
出典:沖縄県公文書館1944年10月10日那覇大空襲
戦車の轟音まじかに迫り通信の確保期しがたし・・・
そして無線機を破壊した父を含む13名の局員は、那覇を脱出し南部への逃避行を開始したのでした。6月23日に日本軍の組織的抵抗は終了。父は米軍の捕虜になりました。その時13名いた那覇無線局員で生き残っていたのは、わずか2名(父を含む)だったそうです。
父がこんな凄絶な体験をしていたことをMARCYは全然知りませんでした。あまりにもつらい体験を父は語りたくなかったんだと思います。初めて父の体験を知ったのは、MARCYが高校生の時でした。
父は戦後、電信電話公社(いまのNTT)に復職の機会を逃して、民間の電話会社の経営幹部として勤務していましたが、旧逓信省時代からのOBの輪の中にはいたんですね。そして、どうしてもと乞われたのでしょう。今まで黙して語らなかった自らの体験を記事として、OB組織の機関紙に寄稿したのです。
その記事を読んだときの衝撃も忘れられないですが、それ以上に記憶に残っているのが、父がNHKから取材を受けてテレビ出演した時のことです。おそらくその番組は、「よみがえる学童疎開の記録 ―沖縄・46年目の証言―」だったと思います。1991年に放送されました。
父はその番組で、当時の那覇無線局員としてどんな内容の無線をキャッチしそして打電していたのかを語りました。当時通信能力を失っていた沖縄県庁の行政無線や本土から派遣されていた新聞記者に頼まれて打った米軍上陸のスクープ無線の話など。その記者は
ああ、これで社長賞は間違いない。これで俺が死んでも妻や子の生活は保障される。
と喜んでいたそうです。父は淡々と語りましたが、死を覚悟した記者の話に凄みを感じましたね。このテレビ番組をMARCYは録画して持っています。放送当時の父は、今のMARCYよりも少し上の64歳くらいでとても元気なころでした。
VHSテープからDVDにコピーしたので、画質は決して良くありませんが、MARCYにはいつでも元気な父の映像に接することができる宝物です。父のテレビ出演は偶然なんですが、この映像はある意味、父がMARCYに残してくれた立派な自分史だと思います。
番組の映像も皆さんに見てもらいたいのはやまやまですが、NHKに許可もらわなきゃいけないと思うのでやめときます。この父のテレビ出演映像を持っていたことが、MARCYが自分史を映像で作る意義を感じるきっかけのひとつです。
母の映像の発掘
沖縄アーカイブ研究所って知ってますか?
公的な支援も受けながら、民間に散在する映像資源を収集するとても有意義な活動をしている組織です。ぜひWebを覗いてみてください。沖縄県在住の方ならご自身の思いがけない映像を発見できるかもしれないですよ。
この沖縄アーカイブ研究所は私の友人で映画監督でもある真喜屋力さんが運営しています。アップされる映像をときおりチェックしていたのですが、ある日アップされた映像をみてびっくり!!なんと1965年にMARCYも参加した(当時小学校の2年生)カブスカウトのパレード映像だったのです。
そしてその映像をチェックしてみると残念ながら、MARCY自身だと確信のもてる映像はなかたのですが、なんとなんと、若き日の母が写っていたんです!!
出典:沖縄アーカイブ研究所
当時の映像のスクショですので画質も粗くわかりにくいと思いますが、画面左はしの赤い洋服を着た女の子の後ろ、水色と白のワンピースの女性がMARCYの母です。このワンピースは当時母のお気に入りでしたので、一目見て母だと確信出来ました。
この映像は当時、MARCYの所属していた電波堂カブスカウト257隊のご父兄の方が8ミリフィルムカメラで撮影したものだそうで、音声は無く無音のフィルム映像なのですが、母の姿を見つけたときには胸がいっぱいになりました。
30分をこえる長い映像ですが、当時の雰囲気をよく伝える映像ですのでここにアップします。
出典:沖縄アーカイブ研究所
沖縄在住の方で60歳以上。1964年当時にカブスカウトやボーイスカウト活動を経験した方ならこの映像に写っている可能性は大ですよ。まさかこんな映像が残っているなんてMARCYも思っても見ないことだったんです。
自分史映像をつくるお手伝いを仕事にしよう!!
MARCYの母は、8年前に脳出血で倒れ半身不随で特別養護老人ホームのお世話になっています。この映像を発見したのは、2年前のこと。若く元気な母の映像に接したMARCYの胸があつくなった気持ちはわかっていただけるのではないでしょうか?
そして、今まで企業のプロモーションビデオを中心に映像制作をしてきたMARCYにある思いが生まれました。亡くなった父が残したテレビ番組の映像と思いがけなく発見した若き母の8ミリフィルムの映像。それを見たときのMARCYの感動。
そうだ!!父や母の映像が残っていたことによるこの感動は、自分史を映像でつくる事によって多くの人に共有してもらえるはずだ!!いや喜んでもらえる仕事になるに違いない!!
そしてその時から自分史を映像でつくるお手伝いを始めようと思ったのです。しかしその時にはMARCYには自分史の知識はほとんどありませんでした。自分史ビデオは=終活だと思っていましたし、自分史を題材にした映画を短編でつくることなど思いも及びませんでした。
以前に勤めていた印刷会社で、2度ほど本として自主出版する自分史を受注したことがありましたが、MARCYは印刷会社の広告部門でCMやプロモーションビデオを作っていましたので、受注しただけで取材や編集にもノータッチだったんです。
そして2018年のある忘年会で、自分史活用アドバイザーの女性を紹介される機会がありました。その女性こそMARCYが自分史活用アドバイザーの資格を取るきっかけになった松田玲奈さんでした。
次回はMARCYも松田さんも所属する自分史活用アドバイザーの認定団体「自分史活用推進協議会」の話や自分史の歴史について書こうと思います。それでは「MARCYの自分史ブログ」初回はこの辺でおしまいです。
現在時刻2020年1月13日23時18分。それではみなさん、おやすみなさい。
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